メンヘラのくせに短小ちんこみたいなしょぼいブログを書く人間が嫌いだ

お久しぶりです。

意気揚々とはてぶを始め、駄文を元気に生産したはいいものの、思ったよりも芳しい反応が得られず、萎えて麻雀やゲーム、フィットネスに逃避していました

(ブログやってる人より遥かに健常者に見える!)

 

とはいいつつも、せっかく始めたブログを、キモイアフィカスや売名乞食に絡まれただけの体験に留めたくはありません。汚らわしいので。

 

そこで、今後の方針の整理もかねて、これまでのブログ活動の振り返りと実生活に生じた変化を語ります。現代におけるブログの課題と、希望について知見を提供できれば、少しはインスタやツイッターと(こいつらもバカが増えてきましたが)張り合えるようになるんじゃないかとおもいまする。

 

んじゃすたーと

 

「はてぶを始めて感じたこと!」

①このご時世にブログを書いてるやつ、キモイやつ多くね?w

はい。ブログランキングを見たところ、、、なんだか冴えない連中が多いんですよね

 

・ひたすら対して役に立ちそうもない商品をお勧めしてるアフィカスくさいカス

・自分探しをずっとしてそうなメンヘラ(これは僕も。でもてめえらとは一緒にすんな文章力が違う)。

フリーランスになることだけを目的にした薄っぺらい自己啓発ブログ

 

うーん、きめえ。なんでこんなカスどもがランキングで人権もらってるんですか。お前ら学校や職場に放り込んだら最下位争いするカスのくせに、そんなカスにランキングという権威が付与されるのは本当にブログがオワコンになってしまわれたのだなあと。

 

メンヘラするのはしゃーないとしても、メンヘラのくせにブログがしょぼいのは本当に終わってるんですよ。僕が軽蔑するメンヘラ自分探しブログの特徴として、

「文章が短い、粗チンのようなブログ」なんですよ。

え?そんなうだつが上がらなそうなオーラだしているのに、言語力もないのかと。タイトルでは粋がって社会への不満や自分探しの所信表明をぶちまけているくせに、いざクリックしてあげたら、たったの数行で。。。みたいな。粗末なちんぽこみたいな悲壮感が漂っています。メンヘラの不満なんてだれも真剣に受け止めてくれないんですよ。というかそもそも興味すら持たれないんですよね。精神科医でさえも、所詮は他人だから、1時間以上診察待ちさせて3分でテキトーに診察するっていう地獄。

 

メンヘラを救うには、自分自身に興味を持ってもらうしかないんですよ。メンヘラ対策ガチ勢の精神科医を医療という土俵に立たせたとしても、せいぜいテキトーに処置するのが関の山なほど、無関心ってのは生産性が低いんですよ。だから、メンヘラはこのままずるずる生きたら、精神科医ツイッターの囲いみたいな、「生活の糧のために仕方なく興味があるふりをしている」エゴの塊みたいな連中に金や肉体をもてあそばれて終わるんですよ。

 

おまえは雑魚なんだよ。だからせめて、パソコン開くなら本気で文章くらいかけや。本気出してその短小みたいなカスブログしかかけないなら、おまえはもう本当に終わりだよ。それか本気で悩んでないんだよ。本気で怒ってないんだよ。お前自身のメンヘラという感情は、所詮その短小ブログが限界なんだよ。ってことを噛みしめて生きていってほしいんだ。

まあ、そんな感じの、エネルギーに乏しい人間がうようよいて、気持ち割イなってのが、はてなブログを始めた感想です。

 

じゃあ、ブログを始めたポジティブな側面もしゃべってやるか(あんまりないけど)

それは

「言語表現の多様化」

これに尽きる。

ツイッターとかインスタグラムっていうのは、あらかじめ見てくれる人がいることを前提に成立しているですよ。リアルの繋がりが先にあって、そこから投稿する内容が発生する。全く繋がりを持たずにツイッターやインスタを始めたら、きっと言葉だけじゃ何もできない。顔の良さでオフパコするか、歌やゲームの卓越した技術で魅了するか。そうした武器をもってしても、やはりリアルの繋がりがないことには始まらないんですよね。それって結局、インターネットを既得権益層に譲り渡してしまうことにつながると思うんですよ。リアルでも問題なく人とつながれて、喋れて、価値を作れる人間が、インターネット上でも幅を利かせる。5chなんかも、最近は中途半端なキョロ充のセカンド童貞大学生が増えたせいか、セックスマウントや年収マウントにあふれていて。。。

それって現実の下位互換なんですよね。現実でもマウントはありますよ。でもマウントを行うことで、関係性ができる。どんな形であれ、だれが勝者でだれが敗者か、当事者同士がしっかりと認識できる。だけどネットにはそれがない。ただ剝き出しの競争心があふれて、現実的なつながりを生まないまま人を傷つけるだけになる。それはおもしろくない。

そこでブログなんですよ。ブログはたくさん文字を書くことができます。ツイッターやインスタは文字数に制限がある。文字数に制限のあるツールが、なんかインターネットで人とつながるうえでの一択みたいな立ち位置を占めてるの本当に多様性に欠けていてきもいんだよな。あと、写真を張るのがめんどくさい。動画も載せにくい。それでいて、ランキング機能も完備されている。だから、文章で勝負しやすい土俵が、ブログという空間の唯一にして最大の良さなんだ。

顔が悪くても、歌が歌えなくても、友達がいなくても、文章さえ書ければ、人間として成立するんですよ。インスタは?ツイッターは?写真を載せなきゃ投稿ができない=人間として存在しにくいんですよ。あるいは140字分しか自己を展開することが許されていないんですよ。

だから、俺はブログに期待しているんだよ。俺には友達もそんな多くないし、彼女だって長続きしたことがない。それって童貞よりみじめだぞ。数年の交際を経てもなお、価値を証明できなかった男なんだよおれは。そんなスッカスカの糞みてえな俺でも、自殺したくないから、彼女を作るために、大学デビューを目指して、大学デビューするために、関東の国公立を目指して、関東の国公立を目指すために内申と勉強を頑張って、内申と勉強を頑張るために、部活動や勉強をやるしかなかった。んなもん、友達も、何もしないでもちやほやしてくれる女の子もいないくそみてえな俺がやりたいわけねえんだよ。部活は彼女餅の糞が粋がってやがるし、勉強だっておもんねえし勉強しすぎたらがり勉オーラが出て余計になりたくない自分になる。だから、そんなくそみてえな環境でも生きるために、言葉に頼ったんだわ。言葉だけは、成績が下がろうが女に振られようが、途中入部した野球部にボロカスに負けようが、自分を捉えることを許してくれたんだよ。成績が下がったら勉強は俺に他人面をする。恋人がいなくなったらインスタグラムに乗せることなんてなくなる。野球部に負けたら、本職の選手としての俺の自我は俺に見向きもしなくなる。そんなみじめさを最後にかたどってくれるのは、言葉なんだよ。

だから俺は、弱いくせに言葉すら生み出せない短小ブログを書く人間が嫌いだ。

まるで、言葉すら書けないまま、生きている自分のようだから。

 

 

努力はダサいよ。結果がすべてだよ。gスポットを押せ!このがり勉野郎!

僕が言いたいこと

「学ぶことって客観的に見たらダサい」

「結果が景気を良くする→バブル期の熱狂のように認知がバグる→学習というプロセスにもおまけで褒誉が与えられる」

 

ということです。

 

名誉が付与されるプロセスは

×学び→結果

ではなく

〇結果→(じゃあついでに気分もいいし色々参考になりそうだし)学び

という感じ。

 

人生を楽しく生きたいのなら、結果(僕に対して名誉を与えてもいいと思えるくらいハチャメチャに他人を幸せにすること)にこだわって、時には勉強なんてさぼってしまう方がいいのです。

 

きわめて単純で原始的な例かつ下ネタなので下品ですが

「僕に対して名誉を与えてもいいと思えるくらいハチャメチャに他人を幸せにする結果」一例として持ち出させてください。

 

 

 

 

gスポットを押すと、女の子の場合(男の子にもあるのか?けつめどに)、体に基地外のような快感が流れ、僕に対し必死に懇願と思慕の情をあらわします。

 

では勉強ばかりしてgスポットの押し時を逃してしまうとどうなるか。

僕の予想では

世間体はいいけどブラック気味の会社で、「gスポット程の快感は与えられないけど、まあ世間には必要だよね」って仕事を、社会貢献とか企業理念とか空想に浸りながら、あるいは職人魂という矜持で寒い心に無理やり熱を与えながら、頑張るしかなくなってしまいます。そんであなたが苦しみながら生み出した価値を基盤に社会は続き、gスポットを押すことに躊躇の無いオスがメスからの名誉を獲得しているのです。

 

結果と名誉の情熱的なやり取りが交わされる最前線にあなたはいません

gスポットを押さなければ。

 

教科書を読んでいてもすぐにはgスポットは押せません。ですが、町に出て女の子と仲良くなればgスポットを押すことができます。

教科書を読んでも、gスポットが押せる事例はあります。例えば女の子に勉強を教えたり、グループワークで知り合った娘のgスポットを狙うなどの事例が考えられます。

ですが、教科書の本文は学問です。gスポットではありません。

 

まあ、人それぞれの人生なんで好きに生きたらええんちゃうかと言ってしまえばそれまでですが。

 

だからといって人それぞれという言葉に甘えると、欲求不満の安易な肯定に繋がります。だから僕は、苦しくても素人者のハメ撮りを見たり、ひどい振られ方をした彼女との逢瀬を思うなどして、血の涙を流しながら、自慰を行っています。

 

それは、僕自身を「人それぞれ」という言葉で安易に片付けることの無いように、苦しみながら、気持ちよくなるのです。

 

まあ汚い話はここまでにします。とはいえ、結果という概念を理解するには、快感の最大単位を持ち出さなければ、表面的な自己啓発に終始してしまうおそれもあるので、僕の下ネタは決して無駄ではない。gスポットを押せがり勉野郎。

 

「結果」が生み出した熱のおかげで、学びという白けた空間価値が生まれていることはわきまえたいものです。

 

そうでないと、人前に出たときにがっかりします。結果が生み出したバブル期の熱狂で何をしてもちやほやされた気持ち良さに浸りすぎると、祭りばやしの翌日の退屈を生き抜くことはできません。

 

僕はそんな感じの勘違いをたくさんというか、そうやって勘違いに酔わないとやってられないくらいには余裕がない人間なので、努力を結果と勘違いして期待外れを経験してしまう。。。。本当に気を付けてほしい。

 

 

 

 

 

努力はダサいよ。結果がすべてだよ。gスポットを押せ!このがり勉野郎!

僕が言いたいこと

「学ぶことって客観的に見たらダサい」

「結果が景気を良くする→バブル期の熱狂のように認知がバグる→学習というプロセスにもおまけで褒誉が与えられる」

 

ということです。

 

名誉が付与されるプロセスは

×学び→結果

ではなく

〇結果→(じゃあついでに気分もいいし色々参考になりそうだし)学び

という感じ。

 

人生を楽しく生きたいのなら、結果(僕に対して名誉を与えてもいいと思えるくらいハチャメチャに他人を幸せにすること)にこだわって、時には勉強なんてさぼってしまう方がいいのです。

 

きわめて単純で原始的な例かつ下ネタなので下品ですが

「僕に対して名誉を与えてもいいと思えるくらいハチャメチャに他人を幸せにする結果」一例として持ち出させてください。

 

 

 

 

gスポットを押すと、女の子の場合(男の子にもあるのか?けつめどに)、体に基地外のような快感が流れ、僕に対し必死に懇願と思慕の情をあらわします。

 

では勉強ばかりしてgスポットの押し時を逃してしまうとどうなるか。

僕の予想では

世間体はいいけどブラック気味の会社で、「gスポット程の快感は与えられないけど、まあ世間には必要だよね」って仕事を、社会貢献とか企業理念とか空想に浸りながら、あるいは職人魂という矜持で寒い心に無理やり熱を与えながら、頑張るしかなくなってしまいます。そんであなたが苦しみながら生み出した価値を基盤に社会は続き、gスポットを押すことに躊躇の無いオスがメスからの名誉を獲得しているのです。

 

結果と名誉の情熱的なやり取りが交わされる最前線にあなたはいません

gスポットを押さなければ。

 

教科書を読んでいてもすぐにはgスポットは押せません。ですが、町に出て女の子と仲良くなればgスポットを押すことができます。

教科書を読んでも、gスポットが押せる事例はあります。例えば女の子に勉強を教えたり、グループワークで知り合った娘のgスポットを狙うなどの事例が考えられます。

ですが、教科書の本文は学問です。gスポットではありません。

 

まあ、人それぞれの人生なんで好きに生きたらええんちゃうかと言ってしまえばそれまでですが。

 

だからといって人それぞれという言葉に甘えると、欲求不満の安易な肯定に繋がります。だから僕は、苦しくても素人者のハメ撮りを見たり、ひどい振られ方をした彼女との逢瀬を思うなどして、血の涙を流しながら、自慰を行っています。

 

それは、僕自身を「人それぞれ」という言葉で安易に片付けることの無いように、苦しみながら、気持ちよくなるのです。

 

まあ汚い話はここまでにします。とはいえ、結果という概念を理解するには、快感の最大単位を持ち出さなければ、表面的な自己啓発に終始してしまうおそれもあるので、僕の下ネタは決して無駄ではない。gスポットを押せがり勉野郎。

 

「結果」が生み出した熱のおかげで、学びという白けた空間価値が生まれていることはわきまえたいものです。

 

そうでないと、人前に出たときにがっかりします。結果が生み出したバブル期の熱狂で何をしてもちやほやされた気持ち良さに浸りすぎると、祭りばやしの翌日の退屈を生き抜くことはできません。

 

僕はそんな感じの勘違いをたくさんというか、そうやって勘違いに酔わないとやってられないくらいには余裕がない人間なので、努力を結果と勘違いして期待外れを経験してしまう。。。。本当に気を付けてほしい。

 

 

 

 

 

興味ない癖にスター押すんじゃねえ。無責任な意思表示はノイズだ。はてなスターの濫用に対して物申す

僕にスターを押そうとしている人へ

 

僕の記事の5割くらいは読んでくれましたか?

読んでいない→あなたは最も下等な人間です。消えてください。

 

読んだ→ありがとうございます。

ですが、あなたは読者にもならないし、コメントも書く気はないようですね。

それでもスターを押そうとしているのはどうしてですか?

それは、思考停止の習慣ではありませんか?

 

ブログは現実とはやや異なるコミュニケーションの場であるという僕の立場からすれば、その習慣化されたお世辞のようなスターは、ブログを現実化してめちゃくちゃにする。匿名性の掲示板なんて、特にお世辞を言ってはいけない

 

匿名性良さは、現実に縛られないところです。真実に一歩近づくことができるし、普段話せないことも心置きなく話すことができます。

 

現実の良さは、ある程度僕を縛ってつなぎとめてくれるところです。結局僕も人間なので、ある程度の偏りは欲しいものです。文化や伝統、人間関係など、時には邪魔になるものでも、蓄積された偏見という名の文化よって僕を縛ってくれなければ、僕はどこにもいけません。だれかを好きになることも、何かを信じることも、こうした縛りなくては難しいでしょう。

 

では

匿名同士のやりとりに、現実的な社交辞令を織り交ぜるとどうなるか。

縛られてあげたのに、軸が生じないのです。

社交辞令に応じたのに、相手は僕を縛ることなく、相手も僕に縛られることなく、

電子の波の彼方への消えていきます。

 

それは、最悪の人間交流だと思います。

現実とネットの悪いところをとっています。

ネットで自由になったつもりが現実の価値観から抜け出せずにお世辞スターを投げて満足したり、現実的なコミュニケーションを取ろうとして、挨拶がわりにそこまで興味はないのにスターを投げて、今後の肥やしにしようとしても、相手はいつのまにかブログをやめていたり。

 

そんなの悲しいですよ。

 

以下、機械的なスター行為に対する憎悪の数々を。正直、これ以降は興味がないなら読まないでください。汚い言葉を使います。それでも、僕は機械的なスターに絶望した証を残しておきたいのです。

 

 

「日々ブログを読んでいていいなと思っても、コメントを書くのは敷居が高く、気持ちが十分に書き手に伝わらずに終わってしまうことも多いでしょう。」

はてなスターはブログにかんたんにstar-yellow.svgがつけられます。あなたのいいなと思った気持ちをstar-yellow.svgに変えて、世界中のブログにstar-yellow.svgをつけよう!」

はてなスターはじめてガイドより

https://hatena.zendesk.com/hc/ja/articles/900002669366-%E3%81%AF%E3%81%A6%E3%81%AA%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%81%AF%E3%81%98%E3%82%81%E3%81%A6%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%89

 

ふむふむ。すてきな理念じゃないか。はてなスターとやらは。

コメントをする/しない の二択ではさびしいから、するとしないの間の、0か1かでいえば0.5のレベルでコミュニケーションを図ろうと。ふむふむ。

 

じゃあ、どんな人が、僕のブログに対して「日々ブログを読んでいていいなと思っても、コメントを書くのは敷居が高く、気持ちが十分に書き手に伝わらずに終わってしまうことも多いでしょう。」と感じ、はてなスターを押しているのか。

 

何気なくランキング記事を眺めると

「あ、この人僕の記事にスター押してくれた人だ!こんな記事に興味あるんだ!」

「あれ、次に読んだ記事にもスターおしてるこの人」

「は?僕の目につく記事にはだいたいこの人がいるんだけど」

 

あーなるほどね。手あたり次第押しているってことです、か。

 

気持ちわりいんだよ

 

コメントに敷居の高さを感じるような謙虚な人間は、誰から構わずスターを押すような厚顔無恥な行いをするのか?

 

僕のブログに毎回毎回毎回毎回、機械的機械的機械的に、虚無スターをぶん投げてくるそこの糞虫。

 

てめえは、ブログに備わった機能を濫用して、売名だか何だか知らないし知りたくもないが、少なくともてめえ自身の私欲のために、相手があなたのスターをどう解釈するかためらうこともせず、

 

機械的に洗練された動きで?日課のように?訓練された習慣?あるいは蓄積されたブログ仕草を見せつけるかのように?

 

背景なんて知る由もないが、おれに虚無スターをぶち投げてくる。

 

不愉快です。やめてください。本当にいいと思ったものにあなた自身の関心を向けてください。

 

はてなスターという機能はボタン一つで簡単に意思表示が行えてしまう。簡単とはいえ、コミュニケーション。相手がいます。

 

僕は、はてなスターを乱暴に押されるのはすごく気持ち悪いと感じます。

 

 

 

つかれた。とにかく、乱暴にスターを押さないでください。こればっかりはお願いです。

 

読者にならなくても、コメントをしなくてもいいです。ただ、スターに対して、こんな見方をする人もいるんだと知っておいてほしい。せめてちゃんと読んでから押してほしい。ランキングに連なる記事ほとんどすべてにスターをおしている人が僕の記事を読んでいるなんて、信じられるわけないですよ。

 

もうこりごりですよ。軽薄で意味の伴わない、なれ合いにすらならない、単なるすれ違いのようなやりとりには。

 

現実だけで十分です。

 

 

「2024年にやりたいこと」

「2024年にやりたいこと」

 

1. 歩く

去年は流石に歩かなすぎた

f:id:bocchi-no-okuchi:20240109160303p:image

今年は、1日あたり平均して5キロ以上は歩いてみる。

一日8,000歩歩く人は、一日4000歩の人に比べて、死亡リスクが半減したいという報告もある。

https://www.nikkei.com/nstyle-article/DGXMZO61941050X20C20A7000000/

 

明確な因果関係は示されておらず、あくまで傾向なので、この結果を元に、「歩かない=不健康」と論じるのは愚か者の思考だ。

 

しかし、今年に入ってから意識的に歩数を増やした私の所感として、歩くことは気持ちいい。 

 

「何が気持ちいいのか?」

・良い歩き方を模索する事は、知的快感を刺激する

・太陽と自然が心地よい

・歩く力が俺に備わっていることを確認。自信がつく

・怪我しないように、道選びや交通ルールの遵守などの危機管理のゲームが面白い。

・筋肉痛が、鍛えたという自負につながる(これはやや危うい快感か)

・歩く前と後で血圧が下がった(試行回数1回)

→今後は歩く前と後で毎回血圧を測定してみよう。人体実験。

・途中の公園で懸垂をするのが楽しい

→公園を見かけたら必ず中で懸垂や腕立て伏せを実施する縛りを科すと、ゲーム性が増す。

・星空や遠くの看板を眺め、視力を楽しむ

・歩くことで脳の一部を使い、余計な思考を忘れる。歩いても忘れられない程度に重要な思考に集中できる。気がする。

f:id:bocchi-no-okuchi:20240109160735p:image

↑今のところ好調な出だし。

 

2. 5ch断ち

どっぷりと5chに浸かった人生だった。中学からハマり、二十数年の人生のうち、10年以上は継続的にまとめサイトやなんjに入り浸っていた。専門的な知識についてリサーチする時も、5chの専門版を見る癖が付いていた。

 

あれもこれも、自分が知りたいと思った事は「〇〇 なんj」「×× なんj」といったように、匿名掲示板の意見をまずは参照するようになった。

 

この時間の使い方は、はっきり言って失敗だった。思想が歪んだ。

 

なぜ失敗なのか?

答え:気持ち悪さに満ちた空間だから

 

あなたが人生で充実している瞬間を思い出してほしい。デート、仕事、ゲーム、なんでもいい。ただ目の前のことに、没頭(集中していようが、ぼーっと恍惚に浸ろうがかまわない)して、善も悪も言葉足らずに、自己を通り過ぎる認識を抵抗なく受容する。

 

そこに、匿名掲示板は在るか?僕はない。僕が匿名掲示板を見る瞬間は、こうしたマインドフルネス的な充足が欠けている自覚が少なからずあった。

 

匿名掲示板を見てる僕は、どこか下品でニヒリズムに浸り、かといって社会をあきらめて凛然と世捨て人となることもできず、友達の代替を求めて、かといって直接自己をさらす勇気なんてなく、まとめサイトに流れ着いた。気持ちが悪い人間だ。そんな感じでしか生きることができないのなら、死んでしまった方が幸福だ。

 

おそらく僕のような軸を持たず、今を肯定できず、かといって過去に浸ることもできず、そんなふがいない有様に対して立ち向かう原動力(怒りや反骨進、恐怖でもなんでもいい)を、現実に対して適切に行使できない(荒らしや対立煽りなど)、どこかピント外れな人間が集まるのだろう。

 

これが、10年以上にわたって、匿名掲示板やまとめサイトの移ろいを眺めた僕の所感だ。

5chを楽しむことができる人はいるだろう。私のこの決断も、どうせ偏見に満ちた不正解なのだろう。だが、それでも、10年以上の経験が、ようやく私を突き動かす。

 

「5chは、気持ちがわるい」 と。

 

一万時間の努力という言葉がある。真偽はさておき、一流のプロになる上で、打ち込む べき目安とされている時間が、1万時間だ。

僕は命を、5chに浪費した。そうするしかなかった。

苦しみを紛らわせるために、何かを調べている実感を錯覚するために、非社交的な自分を否定してくて、匿名という人間関係の最底辺を攻めて、コミュニケーションごっこをした。

 

あと少し、自分をごまかさずに、怒りを貯めていれば?

あと一秒悲しみを持続させていれば?

自分の弱さに立ち向かえたのか?

 

ただただ5chを見て、下品なスレを見て、自分をごまかした弱さに、呆然とする。

 

3.麻雀をやる

正直麻雀なんてよくわからない。友達がやっている、藤田晋mリーグに金をだしている、なんか知らんけど、雀魂のおかげで人口が増えている気がする。無限の展開パターンがあって、そういった宇宙性に抗って、勝利という自己実現を成し遂げるプロセスに興味(どうせ、これも大した興味じゃないのだろう)がある、中途半端に友人に誘われるがままに初めて雀士で止まっているのがなんか弱そうなオーラ出ててむかつく..(どうせこのいらだちも,,,以下略).etc

と、僕という塊を麻雀に差し向ける引力はこんな感じ。

麻雀をやるという決断も、どうせ決断の体をなさない一時的な偏見なのだろうか。死ねばいいのにこの不確かであいまいな主体性よ。死ね。

 

だが、広がりは感じる。少なくともとち狂ってお絵描きを始めたころよりは、麻雀をやっている自分に嫌悪感を抱かない。

(お絵描きもやり方次第だとは思いますが、1.絵描きのツイートや交際した美大生など絵の熟練者との楽しい(藁)交際の結果、絵に命を偏らせる人間どもは全員異端な方向に努力してとち狂っている感じがあってキモイなと思た(この偏見を消せる最強の絵描きはdmしろ)、3.そもそも僕が絵を描き始めた動機が、身の回りに絵をやってるやつがいなくて紙とペンを走らせればある程度は上達が見えるという、成長ポルノ伸びしろポルノじみた下衆心であったことが原因なので悪しからず。)

 

今のところ一日につき一半荘は、できている。

 

どんな形であれ、僕は寂しいのだ。彼女がいないこと、友達はいるけど距離が遠い事、幼少期から青年期を楽しめなかった自分に対する嫌悪と手持ちの幸福の残高を元手にして、幸福のやりくりを死ぬまで続けることへの不安etc

 

もろもろあるけど、

 

「僕は、僕を、人がいそうな方向に、偏らせたいんだ!麻雀頑張ろう!」

 

4. スポーツに触れる

これも麻雀と同じような動機。 自分を、温かい方向へ、偏らせたい。

 

だが、スポーツに関しては麻雀よりも確かな主体性を持って論じることができる。

 

中学と高校の6年間を運動部で過ごしたおかげだ。

とはいっても、僕はこの6年間を、そう簡単に評価してあげるつもりはない。

成長-偏見、健康-疲労、団結-排斥、勝利-敗北、鍛錬-自死、才能-無能

 

運動部を頑張って学生時代を楽しんだ教員免許持ちの自称大人が、子供に対して、自分が頑張った経験を元に全力で(やめろ)、教育を行う。

所詮偏見の塊なのだ。学生時代の部活動なんてものは。

 

本当の闘いは、血の鉄分が香るような、切れ切れの息切れ渦巻くグラウンドには存在しない。

 

引退後、筋肉が贅肉に変わり始める頃にひそかに始まる。

 

成長が偏見に化け、勝利が栄光に腐り始める。

要領という言葉が、一転特化の訓練を嘲る。

その戦いに終わりはない。勝利も偏見に依存しなければ手に入らない。

競技上から離れた同期の顔に接点を見出すことは難しく、記録は後輩に塗り替えられる

それでも、死ぬのが怖ければ、素直に生きるしかない。

 

まあ、僕の運動部の経験はこんな感じ。だから引退後めちゃくちゃ病んだ。

去年のヘルスケアが全然歩いていないのは、歩くことの意義を喪失したから。

それでも最近は、歩いている。懸垂をしている。腕立て伏せは嫌いだけど、頑張っている。公営のグラウンドを使うには入場料と交通費と移動時間が必要になった。労働や勉強、家事、ささやかな遊び等、運動以外のタスクが生活を喰らいつくしている。

 

それでも、僕は、これまでの人生で一番運動が好きだ。

だから、いける気がする。

 

青年期のスポーツは僕の自我をちりじりに吹き飛ばした大嵐であった。

 

それでも、舞った土埃は価値観の地表を象る。

達成感の残滓は、「明日も生きろ」と偏見のバトンを渡してくれる。

 

長く、ポエムチックになった。日常生活じゃ使わない方向に、言語を広げられるのがブログの面白さですね。

 

とりあえず栄養学、解剖学を深めて、厳しさよりもマイペース、一人よりもみんなで、学生時代使いきれなかった分まで、汗を流そうと思います!

 

 

 

所感 言葉について諸々

「図書館」

本を借りるには技術がいる。

借りたのに読まない本を減らすゲーム、期待外れの本を減らすゲーム。

 

15冊も借りて、重い荷物を背負って帰ったのに、一切読まないなんて基地外ですか?

 

読んでない15冊のくそみたいな本を返すためにまた背負って寒い中歩きたくない。

 

図書館を取り囲む雰囲気は、公共サービス特有の優しい面構えをしている。

けれど、自分の興味関心に無頓着な人間を救ってくれるほど、万能じゃないんですね。

 

どうせ、僕以外は僕のことを正しく見ていないのだから。

 

「」

読むこと、聴くこと、知ること、感じること。

書いて、語り、考えること。

 

最近、少し大人になったのか、そういったことをしている瞬間に、どうしようもない

「カタめられている」ような、いらだち、レジスタンスの衝動を覚えるんだ。

(反抗期のガキみたいな感情を、大人として扱うなんで、僕はかわいくない赤ちゃんだ)

 だから、最近は何も調べたくないし、何も尊敬したくないし、自分以外を否定したくて仕方ない、客観的は嫌なやつになっちまったよ。

 

何かに興味をひっぱられて、それは音楽でもスポーツでも容貌でもなんでもいいんだけど、会ったこともない存在に、調べて数秒で

「すげえ」

それでいいのか?この俺のフニャチン野郎が!

 

興味の引力、つまり流れは、この俺が作るんだ!


そういってやりたいが、脳みそはすっかり能無しになっちまって、俺の宣言は嘘の響きがある。口は軽く、内臓が透けるような、ばかばかしさを、感じる。

「嘘っぽい柔らかな脆さ」これが今の僕の主体性の、悲しい本質だ。

 

「うだうだとごみポエムを描いている途中にみつけた、屑籠の中のダイヤモンドのような言葉」

◎星空のかおり

→羽毛の鎧の隙間から、星空のかおりがした。

 

◎唇に残された最後の艶

→正月終わりの大気圧は、唇に残された最後の艶を無慈悲に拭った。

 

「」

喋ることが当然、言葉は身近にある。それって幸運なことだったんだよな。最近感じること。

 

言葉を知って。言葉を真似してみたら、褒められて。

 

僕は言葉を紡ぐことには、ある程度慣れているのかもしれない。人よりも文章を紡ぐことに抵抗感は薄い。むしろ人より言葉が無いと生きていけない部類の人間で、それがすげえむかつく。

 

ただ、僕の言語能力って、人生の大部分では形だけのゴミくずでさ。

本当に話したい言葉なんて、紡ぐ指先に比べるとあまりに小さい範囲にしか

存在しない気がして、喋りたくなくなる。

 

常に間違えて、うそをついて、僕は騙しだまし生きているような辛さがある。

 

でも

鉄砲は

撃たないと

アたらない