「2024年にやりたいこと」

「2024年にやりたいこと」

 

1. 歩く

去年は流石に歩かなすぎた

f:id:bocchi-no-okuchi:20240109160303p:image

今年は、1日あたり平均して5キロ以上は歩いてみる。

一日8,000歩歩く人は、一日4000歩の人に比べて、死亡リスクが半減したいという報告もある。

https://www.nikkei.com/nstyle-article/DGXMZO61941050X20C20A7000000/

 

明確な因果関係は示されておらず、あくまで傾向なので、この結果を元に、「歩かない=不健康」と論じるのは愚か者の思考だ。

 

しかし、今年に入ってから意識的に歩数を増やした私の所感として、歩くことは気持ちいい。 

 

「何が気持ちいいのか?」

・良い歩き方を模索する事は、知的快感を刺激する

・太陽と自然が心地よい

・歩く力が俺に備わっていることを確認。自信がつく

・怪我しないように、道選びや交通ルールの遵守などの危機管理のゲームが面白い。

・筋肉痛が、鍛えたという自負につながる(これはやや危うい快感か)

・歩く前と後で血圧が下がった(試行回数1回)

→今後は歩く前と後で毎回血圧を測定してみよう。人体実験。

・途中の公園で懸垂をするのが楽しい

→公園を見かけたら必ず中で懸垂や腕立て伏せを実施する縛りを科すと、ゲーム性が増す。

・星空や遠くの看板を眺め、視力を楽しむ

・歩くことで脳の一部を使い、余計な思考を忘れる。歩いても忘れられない程度に重要な思考に集中できる。気がする。

f:id:bocchi-no-okuchi:20240109160735p:image

↑今のところ好調な出だし。

 

2. 5ch断ち

どっぷりと5chに浸かった人生だった。中学からハマり、二十数年の人生のうち、10年以上は継続的にまとめサイトやなんjに入り浸っていた。専門的な知識についてリサーチする時も、5chの専門版を見る癖が付いていた。

 

あれもこれも、自分が知りたいと思った事は「〇〇 なんj」「×× なんj」といったように、匿名掲示板の意見をまずは参照するようになった。

 

この時間の使い方は、はっきり言って失敗だった。思想が歪んだ。

 

なぜ失敗なのか?

答え:気持ち悪さに満ちた空間だから

 

あなたが人生で充実している瞬間を思い出してほしい。デート、仕事、ゲーム、なんでもいい。ただ目の前のことに、没頭(集中していようが、ぼーっと恍惚に浸ろうがかまわない)して、善も悪も言葉足らずに、自己を通り過ぎる認識を抵抗なく受容する。

 

そこに、匿名掲示板は在るか?僕はない。僕が匿名掲示板を見る瞬間は、こうしたマインドフルネス的な充足が欠けている自覚が少なからずあった。

 

匿名掲示板を見てる僕は、どこか下品でニヒリズムに浸り、かといって社会をあきらめて凛然と世捨て人となることもできず、友達の代替を求めて、かといって直接自己をさらす勇気なんてなく、まとめサイトに流れ着いた。気持ちが悪い人間だ。そんな感じでしか生きることができないのなら、死んでしまった方が幸福だ。

 

おそらく僕のような軸を持たず、今を肯定できず、かといって過去に浸ることもできず、そんなふがいない有様に対して立ち向かう原動力(怒りや反骨進、恐怖でもなんでもいい)を、現実に対して適切に行使できない(荒らしや対立煽りなど)、どこかピント外れな人間が集まるのだろう。

 

これが、10年以上にわたって、匿名掲示板やまとめサイトの移ろいを眺めた僕の所感だ。

5chを楽しむことができる人はいるだろう。私のこの決断も、どうせ偏見に満ちた不正解なのだろう。だが、それでも、10年以上の経験が、ようやく私を突き動かす。

 

「5chは、気持ちがわるい」 と。

 

一万時間の努力という言葉がある。真偽はさておき、一流のプロになる上で、打ち込む べき目安とされている時間が、1万時間だ。

僕は命を、5chに浪費した。そうするしかなかった。

苦しみを紛らわせるために、何かを調べている実感を錯覚するために、非社交的な自分を否定してくて、匿名という人間関係の最底辺を攻めて、コミュニケーションごっこをした。

 

あと少し、自分をごまかさずに、怒りを貯めていれば?

あと一秒悲しみを持続させていれば?

自分の弱さに立ち向かえたのか?

 

ただただ5chを見て、下品なスレを見て、自分をごまかした弱さに、呆然とする。

 

3.麻雀をやる

正直麻雀なんてよくわからない。友達がやっている、藤田晋mリーグに金をだしている、なんか知らんけど、雀魂のおかげで人口が増えている気がする。無限の展開パターンがあって、そういった宇宙性に抗って、勝利という自己実現を成し遂げるプロセスに興味(どうせ、これも大した興味じゃないのだろう)がある、中途半端に友人に誘われるがままに初めて雀士で止まっているのがなんか弱そうなオーラ出ててむかつく..(どうせこのいらだちも,,,以下略).etc

と、僕という塊を麻雀に差し向ける引力はこんな感じ。

麻雀をやるという決断も、どうせ決断の体をなさない一時的な偏見なのだろうか。死ねばいいのにこの不確かであいまいな主体性よ。死ね。

 

だが、広がりは感じる。少なくともとち狂ってお絵描きを始めたころよりは、麻雀をやっている自分に嫌悪感を抱かない。

(お絵描きもやり方次第だとは思いますが、1.絵描きのツイートや交際した美大生など絵の熟練者との楽しい(藁)交際の結果、絵に命を偏らせる人間どもは全員異端な方向に努力してとち狂っている感じがあってキモイなと思た(この偏見を消せる最強の絵描きはdmしろ)、3.そもそも僕が絵を描き始めた動機が、身の回りに絵をやってるやつがいなくて紙とペンを走らせればある程度は上達が見えるという、成長ポルノ伸びしろポルノじみた下衆心であったことが原因なので悪しからず。)

 

今のところ一日につき一半荘は、できている。

 

どんな形であれ、僕は寂しいのだ。彼女がいないこと、友達はいるけど距離が遠い事、幼少期から青年期を楽しめなかった自分に対する嫌悪と手持ちの幸福の残高を元手にして、幸福のやりくりを死ぬまで続けることへの不安etc

 

もろもろあるけど、

 

「僕は、僕を、人がいそうな方向に、偏らせたいんだ!麻雀頑張ろう!」

 

4. スポーツに触れる

これも麻雀と同じような動機。 自分を、温かい方向へ、偏らせたい。

 

だが、スポーツに関しては麻雀よりも確かな主体性を持って論じることができる。

 

中学と高校の6年間を運動部で過ごしたおかげだ。

とはいっても、僕はこの6年間を、そう簡単に評価してあげるつもりはない。

成長-偏見、健康-疲労、団結-排斥、勝利-敗北、鍛錬-自死、才能-無能

 

運動部を頑張って学生時代を楽しんだ教員免許持ちの自称大人が、子供に対して、自分が頑張った経験を元に全力で(やめろ)、教育を行う。

所詮偏見の塊なのだ。学生時代の部活動なんてものは。

 

本当の闘いは、血の鉄分が香るような、切れ切れの息切れ渦巻くグラウンドには存在しない。

 

引退後、筋肉が贅肉に変わり始める頃にひそかに始まる。

 

成長が偏見に化け、勝利が栄光に腐り始める。

要領という言葉が、一転特化の訓練を嘲る。

その戦いに終わりはない。勝利も偏見に依存しなければ手に入らない。

競技上から離れた同期の顔に接点を見出すことは難しく、記録は後輩に塗り替えられる

それでも、死ぬのが怖ければ、素直に生きるしかない。

 

まあ、僕の運動部の経験はこんな感じ。だから引退後めちゃくちゃ病んだ。

去年のヘルスケアが全然歩いていないのは、歩くことの意義を喪失したから。

それでも最近は、歩いている。懸垂をしている。腕立て伏せは嫌いだけど、頑張っている。公営のグラウンドを使うには入場料と交通費と移動時間が必要になった。労働や勉強、家事、ささやかな遊び等、運動以外のタスクが生活を喰らいつくしている。

 

それでも、僕は、これまでの人生で一番運動が好きだ。

だから、いける気がする。

 

青年期のスポーツは僕の自我をちりじりに吹き飛ばした大嵐であった。

 

それでも、舞った土埃は価値観の地表を象る。

達成感の残滓は、「明日も生きろ」と偏見のバトンを渡してくれる。

 

長く、ポエムチックになった。日常生活じゃ使わない方向に、言語を広げられるのがブログの面白さですね。

 

とりあえず栄養学、解剖学を深めて、厳しさよりもマイペース、一人よりもみんなで、学生時代使いきれなかった分まで、汗を流そうと思います!